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自己紹介
初めまして。
ドッグライフディレクターの上野洋一郎です。
1975年生まれ、大阪出身。
早速ですが、私がこの肩書きを持って活動するに至るまでの経緯をご説明します。
学生時代
大学受験(浪人時代)
高校卒業後、大手予備校で浪人生活がスタート。
1993年に放映されたテレビドラマ「あすなろ白書」に憧れ、そんな大学生活を過ごすことを夢見ながら受験勉強に励んでいました。
ところが、センター試験を受けた(1月14日/15日)すぐあとに阪神大震災(1995年1月17日)が発生。今まで経験したことのない、地面が裂けて吸い込まれていくような感覚に何度も襲われました。
「地球が終わった」と多くの人が思ったはずです。
そして「受験も終わった」と。
当時住んでいた実家は幸いにも風呂場が壊れたぐらいで、ありがたくそのあとも受験を続けることができました。(私が受けた東京の大学は受験料が免除になりました。)
ですが、ともに浪人生活を過ごしてきた予備校生のなかには家庭の事情で諦め就職する人たちもいました。
また不幸にも、高校の同級生が1人亡くなり、生きるも死ぬも紙一重であることを実感。
「明日ではなく今をどう生きるのか」
それが潜在意識の中に刷り込まれたような気がします。
入学早々つまづく
映画やドラマを作りたくて、日本大学芸術学部映画学科を2年越しで受験するも不合格。
なんとか、関東の2つの大学には受かり、そのうちの一つと入学手続きを済ませようとしていた矢先、立命館大学産業社会学部からの合格通知が届き、実家から通えるということで行くことに決めました。
入学までの間、短期バイトとして警備員の仕事を友人と始めました。現場は、阪神大震災で破損した阪神高速道路の復旧工事敷地内。ひたすら上を眺め、高架工事をしている作業員が定期的に落とすコンクリート片が、高架下を通る工事関係者に当たらないよう交通誘導するのが仕事でした。
ほんの一部、少しだけの期間でしたが、震災復興に携わっていることに誇らしかった記憶があります。
大学は大阪から、京都の衣笠にあるキャンパスへ電車とバスで行くことになり約2時間かけてまじめに通うつもりでした・・・。ですが、入学早々最初のゼミでつまづきます。
「なんか合わない」
と偉そうに思ってしまいクラスのゼミ生たちとの交流を自ら絶ってしまいました。
それからというのも、ゼミはもちろん、他の授業にもほとんど出席せず、大学に来ても図書館と食堂を往復する毎日でした。全く勉強せずに試験を受け、ときには筆記用具すら忘れていました。
とどめを刺したのが、1997年3月2日に実施された阪急京都線のダイヤ改正で、特急が高槻市に停車するようになったことです。それまでは、十三駅から大宮駅までノンストップでしたが、その中間に当たる高槻市駅で大学には行かず大阪(梅田)に戻るか否かの決断を迫られる日々でした。
結果、完敗です。
ほぼ100%に近い確率で高槻市駅で下車し引き返すようになり、やがて京都線すら乗らなくなりました。
結果、留年。
大学には4年半通いました。
ですが、浪人をして、さらには留年までするダメな息子に両親は文句を言わず授業料を払い続けてくれました。
振り返ると、私のやりたいことを止められた記憶はほとんどありません。勉強しろと言われたこともありません。
唯一なのは、高校受験の前に「テレビを見てばかりいないで勉強をしなさい」と母親に言われ、「やってるわ」と言い残し恥ずかしながらプチ家出をしたときぐらいです。
クソ生意気なガキでしたが、自由に人生の選択をさせてもらいました。そして、今も自分で決めた生き方を過ごせているのは両親のおかげだと深く感謝しています。
ただ、大学から届けられた分厚い値段のはる卒業アルバムを見ながら「あんたが髪の毛ひとつ写ってへんやん」と深い溜息をつかれたときには「ごめん」とさすがに反省しました。
アルバイトに明け暮れる日々・最初の今に続くターニングポイント
大学に行かず何をしていたかと言えば、アルバイトに明け暮れていました。様々な仕事を経験したいという思いから、同じ職種はせず多くのバイトを行いました。
思い出すだけで、カラオケ店、家庭教師の営業、お歳暮宅配スタッフ、引越し作業員、旅行会社スタッフなどなど。
そして、今の仕事に繋がる最初のきっかけとなる、人材派遣会社「パソナ」に学生営業スタッフとして働くことになりました。今で言うインターンシップの走りです。
仕事内容はひたすら「飛び込み営業」です。社員から研修を受けたあとエリアを任されて、片っ端からしらみ潰しに会社と名のつく場所に入っては「人は足りていますか?」と尋ねます。担当地域には高槻市も入っていて、大学に行かずに途中下車をしていただけに何かの縁を感じました。
9割9分は門前払いを食らうのですが、たまに部屋へ通されて担当者と話すことがありました。ですが、断られること前提で訪問していたので、ファーストアプローチ以外のセールストークを覚えておらず長続きしません。
そんなとき、担当者も私が学生だと雰囲気でわかっていますので、「学校はどこ?」「将来何がしたいの?」とか先方から話しかけてくれました。ブレイクタイムの話し相手として都合がよかったのかもしれません。
そんな、数少ないお会いしたある方との会話のなかで「経営に興味がある」的な発言をしたところ、「じゃあ、ピーター・F・ドラッカーの本を読むといい」と進めていただき、たまにしか行かない大学の図書館で借りて読むようになりました。
そのときはまだ「会社を作りたい」といった強い願望はなかったのですが、父親が自営業をしていたせいか、私も「自分で何かしたい」という思いが潜在意識のなかにあったのだと思います。
それからというもの、経営学や経営本にはまり、ありとあらゆる本を読みました。
特に私の担当エリアである高槻市に松下電子工業(現パナソニック)があることから、勝手に一方的に親近感を覚え松下幸之助氏の経営哲学本も貪るように読みました。
当時は就職氷河期真っ只中、かつ第3次ベンチャーブームの時代でしたので、ますます自ら起業することを真剣に考え始めていました。
学生ベンチャーという選択肢
何より、身近な場所で最も影響を受けたのがパソナの南部靖之代表です。
当時は、毎朝1フロアに全社員が集まり朝礼を行うのですが、学生も同席させてもらえ、南部代表の話を直接伺うことができました。
南部靖之氏は同じ関西出身で、関西大学在学中にパソナの前進となる人材派遣会社を設立、一代で会社を大きく成長させたというキャリアは、起業を考えていた私にとって憧れの存在でした。
また、南部代表はソフトバンクの孫正義氏、HISの澤田秀雄氏ともよくセミナーを行っていて、私たちも手伝いとして派遣されていました。間近で、成功した起業家たちの話を聞いて興奮しないわけがありません。
影響を受けやすい性格だったので、どうせ起業するなら「学生ベンチャー」だと一気にそのモードの突入しました。
どうやら、その思いは私だけではなかったようで…。私の人生を決める出会いが待っていました。
同志社大学のインターンSさんとの出会い
私と同時期にパソナで働き始めたSさんは同志社大の学生で年は私の一つ上でした。
チームが違っていたので普段はあまり顔を合わすことはありませんでしたが、朝礼などで顔を合わせるうちに話をするようになりました。
彼も学生起業を考えていたようですぐに意気投合。そうなったら止まりません。
「一緒にやろう」となり、具体的に何をするか話し合いを進めました。
結果、「パソコン教室」を始めることになりました。
理由として、人脈も大金もない二人でしたがWindowsのパソコンは人並み以上に使用することができたことと、当時はまだまだパソコンデビューの方が多く、タイピングからマウスの使い方、OSの概念、ワードやエクセルの活用法などわからない方が多く需要があると思ったからです。
それに、Sさんは実家のある奈良に住んでいたのですが、地元の駅前でマンションの部屋を一室、Sさんの親の協力を得て借りることができたからです。そうして、パソナでのインターンを終了し二人で学生起業家としての一歩を踏み出しました。
右も左も知らない学生を温かく迎え入れてくれ、親切にご指導、フォローいただいたチームの皆様、その節はありがとうございました。
パソコン教室スタート
Sさんの親にマンションを借りる資金、パソコン調達資金などを用立てていただき恵まれた環境のなかでパソコン教室は開業しました。Sさんが代表となりパソコン指導、私は営業という役割分担でした。
チラシを作り、駅前で配ったり、各戸にポスティングをするなどして少しずつではありますが生徒数も増えていきました。
Sさんもマニュアルを一から作成し、指導もわかりやすいので生徒さんの満足度も高かったと思います。
あるとき「Microsoft Office Accessの操作方法を教えてもらうことは可能か?」という問い合わせをいただき、私は即座に「はい」と答えました。その方は申し込みをされ、Sさんにその旨伝えたところ、「上野くん、僕Access知らないよ。無茶ぶりだなぁ」っと言いながらも、その生徒さんが来られる日までには勉強してマスターされていました。
「さすが!」と言えば、「これからは事前に聞いてね」と優しく注意されました。
順調に生徒数は増えていきましたし、満足度も高かったのですが、一方では「教室のパソコンでできることが家のパソコンでできない」といった相談も受けるようになってきました。同じWindowsなのですが、パソコンメーカーが異なるとアイコンの配置なども違うため、場所で覚えていた生徒さんからすれば戸惑ったようです。
そのようなご意見を聞くうちに、「生徒さん所有のパソコンで教えることが理想なのでは」と考え始めるようになりました。もう止まらず「実家を拠点にパソコンの家庭教師を開業したい」という思いが募り、Sさんに打ち明けありがたくもOKをもらいました。
Sさんとの出会いがなければ、今の自分はなく感謝しかありません。
「どちらが藤井フミヤの歌声に似ているか勝負だ」と張り合い、二人で夜通しカラオケ店で熱唱したり(結果はドロー。ジャッジしてくれる人を呼んでなかったので・・・。)、パソコン版「信長の野望」を徹夜で勝負したりと短くも濃く楽しい日々を過ごしたことを思い出します。
ありがとうございました。
パソコンの家庭教師スタート
大学に行かずスーツを着て飛び込み営業をしていると思ったら、今度は奈良に通い詰め、そして新たに実家でパソコンの家庭教師をすると言い始めた息子。それでも、両親は何も言わず見守ってくれました。
「今度は何するん?」が母の口癖に…。
「パソコンの家庭教師始めるんや」
「そうか、なら私にも教えてや」
と、母が第一号のお客さまに。
「お客さまのパソコンで、お客さまの希望することをお教えする。」ことを売りに、チラシを作りポスティング、地域紙に広告掲載などして告知を行いました。
少しずつではありますがお客さまがつき、ご自身のパソコンなので着実に理解し、上達される姿に私も嬉しく感じていました。なかには私の父親ぐらい(当時)の方から「エッチなサイト画面を印刷したい」と要望をいただきご指導しました。
やはり、目的があって覚えるのは違います。すぐにプリントアウト方法をマスターし、毎度お邪魔するたびに成果物を見せてくれました。(笑)
そのお客さまの一人にペットショップのオーナーがいました。
「ホームページを作りたい」といった要望でご連絡をいただきましたが、このお客さまとの出会いこそが、私がこの犬業界に足を踏み入れるきっかけとなりました。
ペットショップのオーナー
私より年は10歳程度上のオーナーは、自宅兼事務所でとして無店舗販売のペットショップを開業していました。
通常のペットショップはまず子犬を仕入れて店頭に陳列し販売するスタイルですが、無店舗販売はお問い合わせのあった客から希望を聞いた上で、該当する子犬をブリーダーから探し仕入れて販売する方式です。当時はまだまだレアな販売手法で「ブリーダー直譲」と呼んでいました。
「飼い主が決まるまで母犬と一緒にいるのですくすく育っている」
「実店舗ほど経費がかからず相場より安い」
などを売りにしていました。
犬は子供の頃から家族で飼っていて好きな方ではありましたが、将来犬に関係した仕事につきたいという目標はありませんでした。ですから、業界のことは全く素人で、オーナーから話を聞く何もかもが新鮮に感じるとともに、驚きの連続でした。
セリ市場に衝撃
まず、最初に驚いたのが「セリ市場」の存在です。
ペットショップのショーケースに並べられている子犬たちに癒されこそすれ、その子らがどのような経路を辿りやってきているのかなど考えたことはありませんでした。むしろ、考えるまでもなく、素晴らしい環境の中で生まれ、育てられたパピーをペットショップが直接仕入れている以外のイメージを微塵も抱いていませんでした。
ですが、実態は生後40日にも満たない子犬たちが一箇所に集められ、競り落とされた子犬たちがショーケースにおさまり売られている現実。無知だった私には衝撃でしかありません。
「実情をもっと知りたい」という気持ちが沸々と湧きました。そして、現実を知れば知るほど、怒涛の衝撃が待ってました。
「現実を知りたい」から「何とかしたい」という気持ちへと変化し、やがてブリーダー紹介サイト「メインキャスト」を立ち上げるきっかけとなる、私にとって大きな一歩となりました。
無店舗販売の仕組み(地域紙が主な広告媒体)
無店舗販売のペットショップオーナー宅へは定期的に訪問はしていましたが、パソコンを指導することはほとんどありませんでした。
ある日は、ショートムービーを撮るためにビデオカメラを購入したから、ぜひ出演してほしいと頼まれ、主演俳優として塀などから飛び降りたり(内容は全く忘れました。)、人を雇うからと一緒に面接したり、本業である無店舗販売で使用する資料などを作成したりと、何でも屋状態でした。
オーナーはおそらく私より10歳ぐらい上でしたので、弟感覚で面白がっていたのかも知れません。私も、その時間分の費用はもらえますし、ペット業界のことも知ることができたので楽しみながら通っていました。
特に、無店舗販売の仕組みを知ることができたのは大きな財産となりました。具体的には、「子犬売ります。お客さまの要望に応じた子犬を手配します。」的な、最も広告料の安いプランで地域紙に掲載します。「こんな漠然とした内容で問い合わせが来るのか?」っと疑問に思っていましたが、それが結構電話がかかってくるのです。
客「ミニチュアダックス探しているんやけどいる?」
オーナー「います。オスですかメスですか?色は?」
客「メスでブラック」
オーナー「承知しました。では、ブリーダーに確認して改めて電話します。」
といったようなやりとりを終えると、子犬探しに取り掛かります。
無店舗販売の仕組み(子犬出産情報の入手方法)
探す方法はと言うと、ブリーダーから集めた出産情報を週2日か3日?(忘れました。)、FAXで流す業者があり、その情報をもとにアプローチをしていました。(この頃はブリーダーと繁殖業者の違いも分かりませんでした。)
利用料は1万5千円前後ぐらい。犬舎所在地・繁殖業者名・犬種・性別・毛色・特徴・卸価格・連絡先が掲載されていました。大体1回の配信で数百頭と結構なボリュームだった記憶があります。そこから、要望に近い子犬を探し出し、ブリーダーに直接電話連絡することになります。
オーナー「出産情報に載ってるダックスの○○まだいますか?」
ブリーダー「いるよ」
オーナー「健康?可愛いい?」
ブリーダー「健康で可愛いよ」
オーナー「じゃ、決まりそうならまた連絡します」
ブリーダー「○○日(当時は45日前後)までに連絡なければセリに出すよ」
とまあ、こんな感じのやりとりを行なってました。
無店舗販売の仕組み(お客さんに連絡)
ざっくりとした情報をもとにお客さんに連絡をします。
オーナー「メスでブラックいましたよ。可愛いですよ。」
当然ですが、それ以上の追加情報はお伝えできません。昔は、これだけで「じゃその子犬でお願いします。」と購入を決める方もいました。(驚きですが・・・)
ですが、大抵は「写真や実物を見せて欲しい」となります。まず写真ですが、デジタルカメラが普及し始めた頃で(スマホもありません。)、インターネット回線も遅く、画像を添付して送ってもらうという時代ではなかったので、写真を現像して郵送で送る必要がありました。
そのため、生体管理で忙しいなか、手間をかけてわざわざ送ってもらえるブリーダーは少なく、問い合わせレベルで頼める状況ではありませんでした。
次に「実物を見たい」ですが、ブリーダーから子犬を預かって売れなければ戻すということはNGで、原則その子犬を購入する必要がありました。「買うかどうかわからないなかで、しかも見たこともない子犬を仕入れる。」商法に驚いたことは言うまでもありません。
オーナー「分かりました。では子犬をお見せしますね。改めて日時の調整をさせてください。」
無店舗販売の仕組み(子犬を仕入れる)
さて、いよいよ買ってくれるかどうかはわからないなか、子犬を仕入れるわけですが、商習慣としては先払いが原則でした。しかも全額です。(もちろん、関係性によっては内金のみや、後日請求も可能だと思うのですが・・・。)
文字情報と電話口でブリーダーの「健康で可愛い」と主観たっぷりのコメントのみで、何万円も支払うわけです。初取引の場合はブリーダーの素性も分かりません。(実際、振り込んだのに子犬が届かないと言ったトラブルも多かったようです。)
またまた衝撃を受けました。
子犬代金をブリーダーに支払い、いよいよ子犬の受け取りです。その方法は、直接取りに行くことは稀で、大抵は「空輸」か「陸送」で送ってもらいます。まさか、子犬が空を飛んでやってくるなんて思ってもなく、これもまた衝撃でした。客室内ではなく貨物室に入れて運ばれるのです。
単純に「酸素はあるのか?」「寒すぎないのか?」など思いましたが、それらは杞憂で、きちんと空調設備など整えられた部屋に入るので問題ありませんでした。
到着した子犬は空港(大阪国際空港)に取りに行く必要がありました。一方、陸送は他の荷物と同様の環境で運ばれてきます。当時は確か、生体を運んでくれる大手配達業者は1社のみで、最寄りの営業所まで受け取りに行ってました。夏場は基本NGで、冬はカイロなどを同梱して運ばれてきます。
感覚として8割前後が空輸でしたが、車に長時間揺られるよりも、空調が整った貨物室に入れられ、短時間で運ばれてくる飛行機の方が子犬の負担が少ない、という理由からでした。
無店舗販売の仕組み(子犬と初対面)
何度か、空港や運送会社の営業所への受け取りに同行しましたが、「子犬が入っているカゴを開ける瞬間が一番ドキドキする」とオーナーは言ってました。口頭のみのやり取りで、そのブリーダーとの取引も初めてな場合も多く、実物の写真を見ていないので当然と言えば当然です。
イメージ通りの子ならラッキーで、ちょっと違うのは許容範囲。なかには、全く別犬(ギリギリその犬種に見えなくもない)ということもあり、そのときはさすがにブリーダーに苦情の電話をするのですが、文字情報と口頭だけなので水掛論になります。(激しく電話で言い合っている現場にも数度居合わせました。)
代金は先に払っているので、よほどのことがない限り戻ってきません。また、直接会いに行くにしても遠方だったりするので、往復の交通費を考えれば諦めることがほとんどで、「その子をいかにしてお客さんに売るか」に頭を切り替えていました。
さらには親犬はもちろん、犬舎も見ていないので、どのような繁殖や劣悪な環境で育てられていてもわかりません。後から考えればなかなか無理のある仕入れ方法なのですが、当時はこの業界のことを何も知らなかったので、それが当たり前なのだと思っていました。
無店舗販売の仕組み(お客様へ子犬の引き渡し)
いよいよ、決められた日時にその子を購入希望者指定の場所へ連れて行きます。大抵は自宅です。
ここの無店舗販売店は在犬を極力持たないことが基本でしたので、子犬を仕入れた日と、希望者にお見せする日を同じ日か、翌日あたりに設定します。ですから、感染病や病気の有無、先天性疾患のチェックなどは当然行いません。
一方、飼い主希望者もそれらの知識は皆無に等しく、物と同じように品質は統一されていると思われている方が多かったと思います。(私も知りませんでした。)
引き渡し場所に到着し下車すると、オーナーは犬種図鑑風のエプロンをつけはじめました。
「それっぽく見えるでしょ。」
とのこと。
ちなみに、子犬を可愛く見せる抱きかたも教えてもらいましたが忘れました。特殊ではなく、犬を飼っていたら普通にするような抱き方だったと思います。
チャイムを鳴らし、出て来られたご家族は、販売店スタッフとも子犬とも初対面。ほとんどのお客様は子犬に釘付けとなりますが「連れて来られても飼うとは決めたわけではない」というスタンスです。
「イメージ通りの子犬でした。」と言われると即決となるのですが、当然躊躇するご家族もいます。その場合、お子様がいたら次のテクニックが発動します。
「子供に抱かせろ」
です。
「お嬢ちゃん抱っこしてみる?」と聞けば嫌がる子供はいません。
「したい、したい」と大喜びです。
抱っこさせてあげると「かわいい」から「この子が欲しい」までに時間はかかりません。両親も子供にせがまれるとダメとは言えず「じゃぁ、飼うか」となります。オーナーのメガネの奥の目がニヤリと輝きます。
なかには「イメージしていた子、伝えていた子と違う」とおっしゃる方もいますが、それはオーナーも空港に取りに行った時点でそう思っています。その場合は次のテクニック。レア感アピールです。
「実はそうなんですが、この子は大変珍しい色で貴重なんです。めったにいません。」「おしゃっていた子は健康上問題が出てしまい、急遽他の子を連れてきました。」など言うと大抵のお客様は受け入れてくれました。(レアな子は劣性遺伝の可能性が高く、健康上問題があるケースが多いことも後で知りました。)
それでも、すぐには決めず「検討しま・・・」と言いそうなお客様には最終手段を発動。
「1週間お試しで飼ってみてください。それで気に入らなければ連れて帰ります。」と言えば、ほぼ全員OKとなります。そして、1週間後にはほぼ「愛着も湧いたのでもらいます。」となります。
無店舗販売型のショップは、在犬を持つことを嫌がります。ですから、そうならないためのあらゆる接客ノウハウを駆使していました。
ですが、それは何もこの販売体系だけのことではありません。ショーケースに子犬を入れて陳列するペットショップや、繁殖業者も当時は同様のノウハウを持って販売していました。
無店舗販売の仕組み(保証)
続いて補償に関してですが「代犬保証」がありますと伝えます。具体的には、譲渡した子犬が重度な先天性疾患を抱えていたり、感染病などで亡くなった場合、同等の犬と交換、あるいは提供するといった保証です。
正直カルチャーショックを受けました。なぜなら、通常は商品を買って不良品が見つかると返金対応が一般的だと思いますが、ペット業界では何もこの無店舗販売店に限らず、一般的に採用されている保証制度と知ったからです。
「同等の犬」とは何を持って「同等」とするのかは実際難しく、何となく同じ犬種、価格帯はあるかもしれませんが、生き物である以上同じ犬はいません。
仮に子犬が亡くなったとして、少しの期間でも一緒に暮らしているだけに飼い主も愛情が沸いています。亡くなったからといって「代犬ください」となかなか割り切れないはずです。
実際、保証対象の疾患や病気を抱えている子犬を迎えたとしても、制度を使用せずそのまま育てると決めた飼い主も一定数います。当時はペット保険も整備されていない時代ですから、多額の治療費を覚悟の上です。
当然、お店側は一部負担も行いません。
無店舗販売側からすれば、FAX情報から流される情報を元に、取引をしたこともない、犬舎を見たこともないブリーダー(繁殖業者)から仕入れた犬を、動物病院で健康チェックなども行わないまま購入希望者宅へ連れていくわけです。
売っている本人も、この子犬が健康なのかどうかわからず販売しているのです。全額はもちろん、一部でも返金を認めれば、怖くて商売などできなかったはずです。
このリスクは無店舗販売店に限らず、セリで仕入れた子犬を販売するペットショップも同様なので、冒頭でも述べた通りです。そのため、当時はショックを受けつつも「そういう業界なんだ」と思っていました。
なお、この代犬保証は今でも行われている生体販売業者は多いかと思います。当時に比べるとサポートが充実しているかもしれませんが、万一の時の制度、子犬の健康チェック管理体制は十分に調べられることを強くおすすめします。